DANCE HISTORY OF A MAN

0019_道端の風景

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Dance History Of A Man

道端の風景
ダンスのビデオを借りては返しを繰り返し、他人のダンスを盗み、ラジオで曲を覚え、ストリートダンサーとして何となくサマになってきた私(?笑)
この頃、ストリートで踊る事も、バトルになる事も慣れてきて本当にストリートを楽しめるようになっていた。

腹が減れば、テキ屋のお好み焼きや焼きそばを食べて、人が集まってくればパフォーマンスを始める。
ギャラリーが自分達のサークルに集まらなければ、他のサークルにちょっかいを出しに行く。
もう、周りのサークルもダンサーだけでなく、バンドや竹の子族系、ローラースケターなど、幅広い付き合いが出来ていた。  ダンスをやっているのか、ただタムロしてるのかわからない状態だ・・・笑

ストリートで踊っていると、ダンサーが珍しいのか、興味本位なのか、ファンらしきモノが出来るようになる。
大体は修学旅行で地方から出てきた子たちが多い。パフォーマンスを見ても見なくても、
「一緒に写真撮って下さ~い」は良くあることだった。
普通に生活している中学生としては、なかなかそんな経験は出来ないので、少し調子に乗って写真に納まっていた覚えがある。

東京、あるいは近郊に住むファンも少しずつ増えて、私達のグループもダンサーとその取り巻きの団体となる。
なんか、インディーズの人気バンドみたいなノリだった・・・笑
ちょうど、ダンスが話題になっていた事と、我々のファッションも派手だった為に、雑誌の取材なども多くあった。
こうして、勘違いを繰り返しながらどんどん有頂天になって行く・・・笑

しかし、もっと凄いチームがいた。タマにしかストリートに現れないこのチーム、ショースタイルのダンスが抜群だった。当時、彼らは別格の存在だ。「BE BOP CREW」である。

今の考え方だと、九州のチームとういのが当たり前だが、この頃は東京支部的なこのグループが存在していた。
TRFのSAM氏や後のJUNGLEリーダー、OHJI氏などのチームだ。
ベニア板のような物にグラフィックを描いたものを大きく飾り、DJ機材を用意して、大きなスピーカーから大音量で曲を流す。・・・我々のラジカセとは大違い。
専属のDJがいるなんて凄い事だった。衣装もお揃いで、完全に芸能人。

もちろん、膨大な数の追っかけの女の子達がいた。彼らの存在感は凄いものだった。
彼らにはどうひっくり返っても勝てる訳なく、ただのギャラリーとなってショーを見つめていた覚えがある。

ストリートが終わると先輩のメンバー達は渋谷、新宿、原宿にあるディスコに行く事が多かった。
しかし、中学生の自分は金銭的にも辛く、そこまで付いて行く事はなかった。
ストリートで踊りはするが、ディスコには行った事がないダンサー・・・。
チョット微妙な感じだが、中学生って事で・・・笑

周りのメンバー達から先週ディスコで何があったとか、これが面白かったとか話されながら、想像だけが膨らんでいた時代である。(私がディスコで暴れまわるのは、もうチョット先の話・・・)
代わりと言っては何だが、歩行者天国が終了した後も、ディスコに行かないメンバー達と近くの公園等でパフォーマンスや練習を続けたことは多かった。
やはり、仲間達といるといつまでも踊っていたいものだ。夢中になっていると本当に時間を忘れる。

時間が経ち過ぎて深い時間になり、警察に補導されそうになった事も数回・・・。
仲間が皆、年上だったので助かっていたが(笑)

しかし、こんな当たり前のようになった日々も長くは続かないのであった・・・。

東京 BE BOP CREW

1984年結成。89年解散。
本家BE BOP CREWのヨシ坊氏のダンスに魅了されたOHJI氏が本家に許しを得て、「東京BE BOP CREW」を結成。
SAM氏、OHJI氏を中心に現在でも日本のダンス界をリードするダンサー達がメンバーとして在籍していた。
当時、ビジネスになりえないと思われていたヒップホップをショービジネス界に参入させた重要なグループ。
SAM氏がメジャーデビューしていたアイドルグループ「リフラフ」のメンバーだった事からか、本当にファンが多かった。
当時私は、「凄いチームだな~」とは思ったものの、彼らがそんなメンバーだったなどとは知る由もなかった・・・。
因みに、ライバルチームとして東京の2大派閥の一角はCRAZY-A氏率いるTOKYO B-BOYSであった。
色々な意味でダンサー間では「ニューヨークシティブレイカーズ」のスタイルがBE BOP CREW、「ロックステディクルー」のスタイルがTOKYO B-BOYSと認識されていた。