ディスコにハマって、約一年半が過ぎた。私は当時高校三年生になっていた。
地元である渋谷や六本木のサーファー系ディスコでもチョクチョク遊ぶようになっていたが、この頃はまだ新宿のZEBRAがホームだった。
地元である渋谷や六本木のサーファー系ディスコでもチョクチョク遊ぶようになっていたが、この頃はまだ新宿のZEBRAがホームだった。
原宿時代ほどダンスのテクニックに固執せず、パフォーマーとしてではなく、只々ダンスを遊びの一つとして楽しむ日々を送っていた。
正直、この時期はダンサーとして考えたら何の努力もしない、意味のない期間だった。
ダンスに対する貪欲さが全く欠けていた。
しかし、以前にも書いたようにプロダンサーになる気など、全くなかった私にとっては普通の事。
今から考えれば全くの勘違いではあるが、ディスコで踊りが上手いと見られるだけで満足だった。
ダンスに対する貪欲さが全く欠けていた。
しかし、以前にも書いたようにプロダンサーになる気など、全くなかった私にとっては普通の事。
今から考えれば全くの勘違いではあるが、ディスコで踊りが上手いと見られるだけで満足だった。
この頃になると、ZEBRAの常連仲間達の中にも黒人音楽好きな仲間が出来ていた。
少し年上のアパレル販売をしていたお兄さんだった。
少し年上のアパレル販売をしていたお兄さんだった。
ある日、彼が見慣れないステップを踏んでいた。
ダンスの向上心があるとかないという事以前に、自分が知らないモノには興味を持つ。
「何、その踊り?教えて~」
と、すぐに彼に駆け寄った。
ダンスの向上心があるとかないという事以前に、自分が知らないモノには興味を持つ。
「何、その踊り?教えて~」
と、すぐに彼に駆け寄った。
すぐに出来るはずと甘く考えてステップを教えてもらう。
しかし、中々上手く踊れない・・・
今まで自分が培ってきたダンスの基本とは全く別のモノだった。
しかし、中々上手く踊れない・・・
今まで自分が培ってきたダンスの基本とは全く別のモノだった。
だがパラパラ等とは違い、明らかに黒人スタイルのダンス。これは習得すべきステップだと本能的に感じた。
この時のステップがランニングマンとロジャーラビットである!
足運びや形は何とか理解出来たのだが、音楽に合わせて気持ち良く踊る事が出来ない。
原宿時代の苦悩を思い出した。
正直、当時踊れるつもりになっていた私は突き落とされた気持ちになった。悔しかった・・・。
これが、私とニュージャック・スイングとの出会いであった。
NEW JACK SWING
80年代末から90年代の初めにかけて爆発的に流行した音楽やダンスの呼称。
ハネるような独特のストリングスや、印象的な強いビートの打ちこみ等が特徴。
黒人音楽がファンクやエレクトロから現在言われるヒップホップやR&Bに変遷する鍵となったスタイルである。
ダンス面ではボビー・ブラウンやMCハマーの出現により、LAスタイルのステップ系ダンスが主流となった。
ブレイクダンスが一気に姿を消し、このダンススタイルが黒人文化の代名詞となっていた。
当時、「ニューダンス」「ISD(インターナショナル・ステップ・ダンスの略)」等とも呼ばれていた。