DANCE HISTORY OF A MAN

0009_アレンジ

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Dance History Of A Man

前述したように、当時の自分の情報源はストリートのみだった。

やっと、TVで見る事が出来るストリートダンスは風見しんごの楽曲「涙のTAKE A CHANCE」!(笑)
知らない人も多いと思うが、彼が芸能界において初めて本格的にブレイクダンスと呼ばれていた当時の踊りを取り入れていた。

しかし、ON AIRは原宿でこのダンスを踊っている人間全員と言って良いほど皆からチェックされていた為、これまた真似でやるとネタバレする・・・。

そして、ここで始めた事が今後の私のダンスを大きく変えた。

今まで通り、動きは盗む。さりげなく観察して、見てない振りをしながら、しっかり目に焼き付ける!
そして、誰も見ていない所でひたすら反復して、動きを習得。

更に、動きを盗んだ事がバレない様に自分のテイストを入れてのアレンジを始めた。
基本をどの様に応用していけば良いのかなどは、皆目見当も付かなかったが、当時の自分はバレない対策で必死にチャレンジした。

今考えると、大してイケてないアレンジだったが、これが後に自分がダンスに対して天邪鬼(あまのじゃく)になる要因だ。

どう言う事かというと、流行のスタイルやお決まりの振付の流れがあっても、それをそのままやる事が嫌いになった。
人がやってる事と同じ事は極力避けたい。例え基本の動きでも、ひとひねり入れたくなる性分になってしまった。

今の自分にとっては、結果オーライなのだが、当時にしてみれば、まともに踊れもしないくせに生意気な考え方だった。

しかし、アレンジする楽しみを知って、これまで以上に他人の動きに対する観察眼が冴えたのは感じた。
他人のダンスの動きや癖などを以前より早く理解出来、吸収出来るようになった。

ストリートで見たモノを練習しないで、その場でアレンジしたり、振付のバリエーションの中に取り入れたりする事が何となく出来るようになったのだ。
(ホント、奇跡だと思うけど・・・)

そんなこんなで、有難い事に少しずつだが上達していき、仲間内でも「最年少の初心者」から「最年少のチームメイト」という扱いに格上げされていった。

そんな14歳のマセガキは調子に乗りまくっていた。(笑)

風見しんご

sim欽ちゃんこと萩本欽一氏黄金時代に「欽ちゃんファミリー」若手ナンバー1として売り出されたタレント。
歌手デビュー後、確か2曲目がブレイクダンスを取り入れた「涙のTAKE A CHANCE」だったと思う。
欽ちゃんバンドで有名な番組「欽ちゃんの週間欽曜日」で毎週ダンスを披露していた。
バックダンサーが本格的にやっているダンサーで、「TOKYO B-BOYS」のメンバーを中心に構成されていた。
リーダーは、後のロックステディー・クルー・ジャパンの代表「Crazy-A」氏だった。
彼らの事は、後に詳しく触れてゆく予定なので、ここでは詳しい説明はなしという事で。