DANCE HISTORY OF A MAN

0059_クラブの従業員

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Dance History Of A Man
Sam
そんなこんなで、中途半端に顔が売れてしまったが、芸能人になった訳でも、番組のレギュラーになった訳でも、スーパーダンサーになった訳でもなく、ただのクラブ従業員な私。
大好きなダンスの練習をし、気の良い仲間達とクラブで働きながらも楽しい毎日を過ごしていた。
勿論、次のステップアップの材料も探してはいたがなかなかチャンスが訪れなかった。

 

我々が出演した「DANCE DANCE DANCE」の収録以降も、3週に1回の収録時には観覧者として参加し、友人達の踊りを応援した。
一般観覧者は何かと局側から制限と付けられるのだが、我々は、初期出演者という事もあって番組スタッフにも顔を覚えてもらっていたので、何かと優遇してもらっていた。

 

その代わりといってはなんだが、番組スタッフ達も出演レギュラーダンサーのSAM氏達と共にJOEに遊びに来る事があったので、その辺はお互い様だったのか・・・?
しかし何事も繋がりが大切である!(今でも切実に思うことだ・・・笑)

 

とにかく当時のS.I.JOEは「DANCE DANCE DANCE」の出演者達もそうだが、当時のヒップホップムーブメントに携わる重要人物たちが多く遊びに来てくれていた。
 With_Megamix
(↑当時からMEGAMIXとして活躍していた、KAORU氏やHIROKO氏も常連の顔でした)
私の個人的な観点から言うと、関東圏では六本木のCIRCUS(サーカス)、Droopy Drawers(ドゥルーピー・ドゥルワーズ)、横浜のCIRCUS、そして渋谷のS.I.JOEという店舗が当時のヒップホップの中心であった。
ただ、当時のクラブはまだディスコ色も色濃く残っており、我々従業員は新規の女性客に積極的な接客を義務付けられたり、時代遅れなユニフォームを着用させられたりした事は苦痛であった。
しかし、これらも我々スタッフの感性を大切にしてくれた当時の店長との話し合いで解決。
ダンサーやDJ志望の従業員達はその筋の仲間を大切にしてゆく事となり、ユニフォームもいわゆる自前のヒップホップファッションを着用出来るのであれば自由と、わりと開放的な雰囲気になっていった。
この様な恵まれた環境の中、コネクションを広げつつも、ある機会が訪れる。
この店での従業員を始めた大きな理由の一つ。
そう、S.I.JOEのショーで踊るチャンスが訪れたのだ
10月のハロウィンパーティーの企画として、プロダンサーとして横浜を中心に当時大活躍をしていたVISIONをゲストに向かえ、セミプロダンサーとして、我々JAZZ BOOや同期の仲間達のチームに声が掛かった。
入店後約3ヶ月で訪れたチャンスだ。

六本木サーカス

当時の東京ヒップホップカルチャーの総本山。この店が無かったら、現在のヒップホップシーンが無いと言っても過言ではない。
後の目黒食堂のオーナー唐氏によって手掛けられたクラブである。
EXILEのHIRO氏やZOOのLUKE氏はこの店の従業員であった。
後のR?Hallの箱である。

横浜サーカス

横浜のヒップホップの聖地。ベースの黒人達からのレアな情報やステップが一早く入手出来る重要な場所であった。
六本木サーカスもこの店の分派。
横浜にありながら、東京のダンサーやクラバーがわざわざ足を運ぶ店であった。

Droopy Drawers

六本木においてサーカスと肩を並べ、ヒップホップムーブメントを牽引してきた店である。
芸能人や著名人たちが隠れ家的な存在として常駐するマニアックな店ではあったが、コアなDJ達の選曲により常に多くの人々で賑わっていた。
当時の店長は、後に私と一緒にイベント運営を行っていた武田氏である。(当時からお世話になってます・・・笑)
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